今週のお題「修学旅行の思い出」
私のど貧乳は今始まったことではなく、10代のころからそうだったので、では、
修学旅行でさぞや恥ずかしい思いをしたのでは?風呂タイムは苦痛だったのでは?
ミニ・ど貧乳史
小学校時代
「ど貧乳」と聞けばもちろん想像できるでしょう。そう、私の成長は遅かったです。でも、小学校時代は(当時は?)成長が遅くて、「子供子供」しているほうがのびのび過ごしていて、体に変化がある子のほうが恥ずかしがってる感じでしたから、私の小学校時代は黄金期でした。
いつもはつらつ、活発に動いて遊び回って笑って、いきいきしていました。
胸はいつまでもぺったんこでしたが、外で動き回って遊ぶにはあんなもん要りませんでしたので、まああまり何とも思っていませんでした。
小学校の修学旅行の行先は伊勢・志摩でした。
一張羅(いっちょうら)を買ってもらって、それを着て行きました。
風呂も、私たちの世代(昭和30年代生まれ)は大抵の子供が「風呂屋通い」の体験がありましたし、誰も恥ずかしがることもありませんでした。私のようなど貧乳も、何を気にするでもなく、普通に過ごしました。
思い出は、夜っぴて起きて、小学校時代の親友と語り明かしたことですかね。
寄せては返す波を見て、その音を聞いて、その夜の中に吸い込まれそうな気持になりました。
夕陽が沈む夫婦岩。
中学校時代
小学校では気にすることもなかった貧乳ですが、中学になり、大抵の子供がそれを脱却していくと、私も気にするようになります。
もうあのころから、「人と同じじゃなきゃいけない」という呪縛にとらわれていたということですね。今思えば、ですが。
部活はバレーボール部に入っていました。
着替える度に気になりました、自分のど貧乳ぶりが。
いつまでたっても出てこない胸。恥ずかしくなって、猫背になりました。
修学旅行は、広島から中国地方のキリスト教関連の観光地をめぐる、というものでした。とにかく、しんどかった。生理が始まって間もなくだったし、不安定な時期だったのかな。
しんどくて、行き帰りのフェリーの中では別室でずっと休ませてもらってたな。帰りは学校まで母に迎えに来てもらった。でも、反抗期で、母と一緒に歩こうとしなかった。
大人になって母から聞いたところでは、私があまりに親に対して冷たいので「あーこの子とは縁ないねんなあ」と思っていたとか。
でも、今もしょっちゅう会ってるから、別に縁がないってことはなかった。
あ、そうそう、修学旅行の風呂タイム。
もう貧乳を気にしてる時期だったから、風呂タイムは問題になるかと思いきや…
なーんの恥ずかしい思い出もない。かなり気にしてたのに。
それはなぜか?
ど貧乳というだけでなく
近眼が発覚したのは小学校入学前の検診。
それでも2年生までは眼鏡をかけなかった。2年生になって、見えていないから、どうしようもなくなって眼鏡をかけるようになりました。40人クラスで一人しかいなかったから恥ずかしかったなー。その頃はまだ、0.6とか0.4とかあったと思う。
小学校高学年になると0.1とかに落ちてましたね。
テレビの見すぎはあかんよ、とか言われたけど、私の近眼は生まれつきのものだと思います。
後に、自分の子供も4-5歳で近眼だとわかって、「あー遺伝なんや」と思うと、とっても心が痛かったです…。
完全に眼鏡かけっぱなしの生活になったのは、小学校4年生ぐらいからかな。
中学校時代
近視0.1-0.3の世界。
これはもう、かなり見えていません。風呂に生えているカビも見えません。石鹸がどこかに飛んで行ったら、探すのに一苦労。( ̄ー ̄)
もしかしたら、中学の修学旅行では、大抵の子が風呂に入るのに緊張してたかもしれない。だけど、0.1-0.3の世界で生きる私には、クラスメートの美しい?胸ポチも、あるんだかないんだかわかりませんでした。「見えない」ってすごいことですね。
声がないと、どいつがどいつだかもよくわからない。
眼鏡を外せば、世界はあくまで美しく(積もったほこりも見えない)、友人はぼうっと肌色が浮かんでいる程度(足元よく見えない)。
( *´艸`)
なあも見えない私の目。
友人がどんな美乳でも豊乳でもワカラナイ。
ゆえに、びっくりするほど修学旅行に悲惨な記憶がない!!!
天は二物(にぶつ)を与えたもう
ど貧乳にど近眼
天は我に見事に二物を与えたり!
仔羊おばさん